人の言葉というものは

「人の言葉というものは大事なものである。
舌先三寸で人も殺すが、また、生かすこともあるのだ。」
三浦綾子さんの小説「道ありき」に出てくる一節です。

私は、この小説が好きで何度も読み返していますが、特にこの一節は、話す仕事を続けている私にとっての教訓であり、人と向き合う時に心に刻んでいることです。

メンタリストのDaigoさんのYouTubeでの発言が炎上し取り上げられています。
(ここではあえて、その炎上の経緯は記しません。)
私は以前から、DaigoさんのYouTubeは時折見ていました。数多くの論文を紹介してくださっていましたし、人の心理を様々な視点から紹介されていて、私自身とても勉強させてもらっていました。

もう5〜6年ほど前になると思いますが、ある会社の製品発表会のゲストにメンタリストのDaigoさんがいらっしゃいました。私はその時、司会を務めたのですが、製品発表会の場で、Daigoさんが見せてくださったパフォーマンスには本当に驚きました。目の前で繰り広げられるその様子は、手品のようなタネがあるわけでは無く、人の心理を確実に読み取っていて、「こんなことって、本当にできるの?」と驚くばかりでした。
本番前には、控え室で打ち合わせをさせていただき、ご本人ともお目にかかりましたが、自分の芯をお持ちで、とてもはっきりとした方だなと感じたことを覚えています。そういうこともあってか、その後は、さらにDaigoさんの活動を意識して見るようになりました。

そして、今回、炎上したYouTubeの動画。その後の謝罪配信。いずれも見ました。
特に、これほどの炎上後に、メンタリストのDaigoさんがどう謝罪をするのか関心を持ってライブで配信を見ました。
私が配信を見ながら興味深かったのは、高評価と低評価のボタンの数です。
最初は、低評価ボタンを押していた人が高評価の人の倍ほどいたと思います。それが配信が終わる頃には、高評価が7000くらい、低評価が8000くらいと差が縮まりました。そして、今確認したら高評価は2万3千、低評価が2万となっていて、高評価が低評価を上回っています。
この数字を見る限り、Daigoさんの謝罪は成功したと言えるのかもしれないと思いました。

ただ、私の知り合いが、この炎上のことをこんな見方をしていて、もし本当にそうなら、それはそれでとても怖いと私は思っています。

「人のメンタルがわかる人が、そもそもあんな炎上することをあえて言うのだろうか?あえて炎上させ、謝罪まで見越してのことではないのか?」

私はどちらかといえば、人の言葉の裏の裏を考えるというのは苦手で、言葉をそのままに受け取るのですが、知人のこういう見方を聞き、確かにそれも一理あると思ったのです。
そして、もしも本当にそうならば、私たち人間は、たった1人の人間に操られる可能性があり、世の中を思わぬ方向へと導くこともできるのだと、改めて、現実として考えさせられました。
もう一つ感じたのは、操られていないと思って信じていた相手に、相手の良いように操られていたという喪失感です。相手と自分が同じ方向を向いている時は良いのですが、相手が行きたい方向に、まるで自分が選んだかのように行った後、実は相手に操作されていたと感じると、その人間関係は壊れてしまいます。これは、私自身、カウンセリングやコーチングを行う時に気をつけていますが、誘導や操作をせずに相手と、本当に向き合えているだろうかと、この一件で改めて振り返っています。

Daigoさんの一件について、他にも思うことは多くあります。
ただ最も強く思うのは、人の言葉は、「言刃」であってはいけないということです。葉のように人の心を豊かにできるものであって欲しいし、私はそうありたいと強く思います。

冒頭に、三浦綾子さんの小説の一節を書きました。
この小説は、三浦綾子さんの自叙伝です。当時、不治の病と言われていた肺結核で病に伏していた三浦綾子さんに、牧師さんが「必ず治ります。いましばらくの試練ですからね」と言葉をかけられました。三浦さんは、到底治ると思われなかったにも関わらず、その牧師さんの言葉がおざなりだとは思わなかったそうです。そして、その後の病床生活の中で、その言葉は、三浦さんを幾度も慰め励ましたと書かれています。

「舌先三寸で人も殺すが、また、生かすこともあるのだ。」
言葉は時として人を傷つけ、人を殺めることもあると思うと、話す仕事をしているしていないに関わらず、私は人にかける言葉が怖いなと思っています。
「何気なく言った一言が、誰かを傷つけていないだろうか?」そう自問自答しています。